
恵比寿の東京都写真美術館にて、被爆80年企画展 ヒロシマ1945が開催されています。来館者は各々、無言で一枚一枚の写真に思いをされていました。

地上600メートルで炸裂した原子の火球表面は7,700℃、地上温度は3,000〜4,000℃に達しました。多くの方々は酷い火傷を負い、その場では生存したものの多くの方々が、その後がんを発症して亡くなられました。

本日8時からの記念式典には、海外からも最多の参加国があるようです。恒久的な平和を心より祈念して、合掌。
恵比寿の東京都写真美術館にて、被爆80年企画展 ヒロシマ1945が開催されています。来館者は各々、無言で一枚一枚の写真に思いをされていました。
地上600メートルで炸裂した原子の火球表面は7,700℃、地上温度は3,000〜4,000℃に達しました。多くの方々は酷い火傷を負い、その場では生存したものの多くの方々が、その後がんを発症して亡くなられました。
本日8時からの記念式典には、海外からも最多の参加国があるようです。恒久的な平和を心より祈念して、合掌。
あじさい(紫陽花)は、梅雨入りすると咲始め、梅雨が明ける頃に花枯れするととある方から伺ってから、毎年気にかけて概ねそのように感じていました。ただ、今年のあじさいは、西日本、東日本ともに梅雨入り前の5月末には咲き始めて美しい色どりを楽しませてくれています。都内の住宅地を少し散策しただけでも玄関先に植えられたセイヨウあじさい、ガクあじさいをたくさん見かけることができました。
あじさいの開花期間は比較的長く、水分が多いことにより元気になります。何とか鬱陶しい梅雨の期間一杯、咲き続けていて貰いたいと思います。また、咲き始めの今時期において、花とともに、大きな葉も最も美しく感じられますので、是非ともご近所で、あるいはあじさいの名所と云われる寺社などを訪れて楽しんでみて下さい。
羽田空港を発着する飛行機から眼下を眺めると、関東平野一面に建てられたビルや住宅が密集する風景が終わりなく広がっています。平野に大きな山はありません。一方、都心や周囲の住宅地を歩くと、在住の方は慣れっこになっていますが、坂道が多く、中には結構な勾配により自転車で上るのがつらい場所もあることに気付きます。坂道系のアイドルグループ名の由来である乃木坂や日向坂(にゅうがざか)などがその良い例です。これらは、太古の昔から1707年の宝永大噴火にわたる、富士山からの火山灰の堆積によるものであり、よってこの地域の土壌は、社会科で習った、関東ローム層(赤土)で被われています。
現代の東京都内では、建物やアスファルトで地面を見ることが殆どできません。ただ、住宅の建て替え現場で更地になっている場所を訪れると、特に土が水分を含む場合は、想像以上に真っ黒あるいは赤黒い、泥あるいは粘土に近いような土を見ることができます。このような更地の中に足を踏入れると、靴にしっかりと土がへばりついて、その足で周囲を歩くと、大変な汚れを広げることになります。
都内の地形を詳しくみると、このような関東ローム層で覆われた山手に加え、堆積平野からなる部分や、徳川家康の時代に埋め立てられた湿地だった部分が含まれます。富士山の火山活動を含む自然の力により形成された地形を生かしつつ、政策的にヒトの手を加えながら、現在の巨大都市へと変貌を遂げてきました。
日本国内において、江戸時代には東京(当時の江戸)に通じる五街道が整備されましたが、陸路については西洋のように馬車を使った輸送手段が十分ではなく(https://regionalfeature.com/飛脚という職業)、船を使って米を中心とした物資を運ぶ手段が主流でした。西廻りの海運としては北前船が有名ですが(https://regionalfeature.com/izumoji)、東廻りの海運については、1671年(寛文11年)に江戸幕府の命を受けた河村瑞賢が尽力し、利根川を介する経路ではなく、東京湾に直接入る航路を開設しました。1802年(享和2年)に北海道(蝦夷)全体が松前藩から江戸幕府の直轄地になってからは、北海道と東京との物資輸送も盛んになりました。それ以降、広大な関東平野と東京湾を介する物資の輸送経路が確立されて、現在の東京が経済の中心地になってゆきます。
東京は、諸外国における国際都市の中でも坂道の多い特異性があると云われています。その背景には、日本を代表する風景であり象徴でもある富士山の存在が深く関っていることを改めて確認できればと思います。
阪神・淡路大地震、東日本大震災、能登半島地震と、近年における多くの犠牲者の方々に思いを致しつつ、我々が目指す方向性を改めて考えてみました。目前の目標として被災された方々の生活の正常化は待ったなし、中期的な目標として地域の文化的なハード、ソフトの継承は日本がこれまで通り力強くあるために必要不可欠、そして長期的な目標としては、我々が保有している人的・物的資源が有限であることを鑑み、より豊かな生活を目指して、拡張政策から現在保有している資産の有効活用に舵を切ることが必要ではないでしょうか。
ニュース番組の冒頭などで、東京都心の遠景が映し出されることがあります。方角的に新宿の超高層ビル群に目を向けることが多いように思いますが、新橋、渋谷、池袋などにも高層ビルが立ち並び、見る位置により各々の街が遠くからでも分かります。またビル群といえば、丸の内オフィス街を歩くと、高層という印象よりも日本の経済の中心である重厚さを感じます。丸の内といえば、2028年度に、柱や床に国産木材を多く使った、高さ100メートルのビルが建設されるとのことです。地方都市では人口減少や大型ショッピングセンターの進出により、かつては繁華街として栄えた地区が、シャッター商店街になってしまったとの話題も耳にし始めて久しくなりました。一方で、東京都内に目を向けると、昨年の11月24日、森ビルが開発を進めてきた麻布台ヒルズがオープンし、日本一の高さや高層ビル周囲に設けられた趣向を凝らした意匠が話題になっています。また、何気ない商業地区や住宅地でも、常に何処かで低層の鉄筋造りの建物や木造住宅が取壊され、新しく立て直す工事が進められています。今回は、今のところ日常的に殆ど見ることがない、高層ビルや重厚なビル群の寿命が来た時の状況に思いを寄せてみました。
私の個人的な思いとして、1990年(平成2年)12月に完成した新宿の東京都庁舎は、昭和時代に計画、設計されたものであるものの、平成時代を代表する建造物の一つだと考えています。その理由は、その規模と意匠が都政の責任の重さを象徴するよう感じさせることだと思います。外観が石造り、ゴシック風で、威厳があり頑丈そうにも見えます。しかし、構造としては鉄骨、鉄筋コンクリート、あるいはそれらの組合せになっており、他の高層ビルと違いはないようです。それでは、これら高層ビルの耐用年数は?という疑問に対する回答ですが、インターネットで検索すると多くの回答を得ることができます。まとめると、躯体構造としては100年、200年は大丈夫だが、長周期地震への対策には課題がある。構造的な寿命よりも時代により建物への需要の変化があり、維持費も相当掛かるため、建物の寿命に関わらず建替えになる場合もあるとのことです。
奈良の東大寺金堂(大仏殿)は、世界最大の木造建造物として、1300年間も維持されています。聖武天皇、光明皇后の平和を願う思いと、多くの人々による大仏さまへの信仰が、前述の「需要」にあてはまるのだと思われます。また、1000年以上も前に日本の大工により培われてきていた高い技術に裏付けられた木造建築の寿命が、前述の近代的な技術と材料による高層建築の寿命を遥かに超えていることについて、改めて感慨を深くしました。因みに、加古里子(かこさとし)さん作の絵本である「ならの大仏さま」によると、前例のない大きな仏像と建物を造ることになり、「造東大寺司(ぞうとうだいじし)」という役所が作られ、建物に関しては、石材を切りだし加工する「石山所」、材木をやまから伐りだす「山作所」、材木を細工し、建物や用具を作る「木工所」、粘土を焼き瓦を造る「造瓦所」などの部署が分担、各々で責任者や多くの技術者、工人、作業者により偉大な工事が進められたとのことです。現代になって建造された建物の中に、1000年先にも稼働、維持され続けるものは殆ど存在しないであろうことを思うと、改めてその貴重さ、尊厳さを感じざるを得ません。
大企業、中小企業が頑張り、経済を回して生活を豊かにする、諸外国とおつきあいする中においても、立派な都市づくりは大切なことだと思います。一方で、地域の産業が頑張り、地域の経済を回す、地方都市では取り壊して立て直すことを主たる方法とせず、できる限り改築、改修しつつ、大都市とは違った価値観を創造することを考えてみる手もあるのではないでしょうか。価値観を現代の目先の内容とはせず、50年先、100年先の未来を想像した内容にすることで、気持ちの豊かさといった精神論だけでなく、経済の観点からも、大きな価値創造に繋げることができるような気がしてきました。