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東京都内にみる馬と関わる地名の由来

東京23区の西部地域には馬に因んだ地名が多く見られます。駒込、駒場、駒沢などは中でも良く耳にします。豊島区の駒込は「多くの馬」という意味ですが、歴史は古く日本武尊の時代に遡るとの説もあるようです。目黒区の駒場の歴史はやはり古く、その意味は「馬の牧場」であり、主に軍用馬の育成の場であったと云われています。一方、世田谷区の駒沢の地名は、明治時代の中期に上馬引沢村、下馬引沢村、深沢村などが合併した際、それら旧名の馬(駒)と沢を合わせて駒沢とした合成地名であり、地名自体の歴史は新しいとのことです。(合成地名と云えば、大森と蒲田を合わせた大田区が有名ですね。)

現在の世田谷区には上馬引沢村、下馬引沢村に由来する、上馬(かみうま)、下馬(しもうま)の町名も残っていますが、元々は源頼朝の時代の「馬引沢」、「この沢(湿地)では馬を下りて引いて渡る」、というのが由来であるとされています。更に世田谷区下馬には駒留(こまどめ)、駒繋(こまつなぎ)という地名もあります。古い時代から馬との関わりが強かったことを窺わせる地域の特徴のように感じました。

東京都世田谷区下馬にある駒繋神社

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上野動物園の在来馬、えりか、シン、琥太郎

日本在来馬は現在、北は北海道和種(いわゆる道産子)から南は宮古島の宮古馬、与那国島の与那国馬まで8品種いるとされています。日本国内での旅の足、物流の歴史を振返る中で、西洋との違いを考える背景の一つとして在来馬の体高、体形などを実感、体感するのは至難の業ではありません。北海道あるいは沖縄県などの観光地に行って在来馬が牽く馬車に乗る、乗馬を楽しむという企画を探して出掛けてみるのが一つの方法でしょうか。一方、日本の動物園を代表する東京都台東区にある上野動物園では、在来馬の飼育、展示にも力を入れてています。実際に行ってみると、2019年8月現在では愛媛県の野間馬(名前:えりか)、鹿児島県のトカラ馬(名前:琥太郎)、沖縄県の与那国馬(名前:シン)に出会うことができました。東京都内の一か所で3品種に出会えるのは奇跡に近いことかも知れません。唯一の牝馬である野間馬のえりか号は白毛で、長い睫毛も白いのが印象的でした。野間馬の特徴なのかは不明ですが、3頭中で一際小柄です。

与那国馬のシン号はトカラ馬の琥太郎とは1歳違いの牡馬です。明るい茶の毛色ですが、タテガミが黒いので栗毛ではなく鹿毛(かげ)と呼ばれるのだと思います。西洋種のように速く走れそうな体型には見受けられませんが、在来馬全般的に蹄鉄を必要としない強い蹄をもち、粗食にも耐えるという大きな特長をもっているとされています。

トカラ馬の琥太郎号はグレイ調の毛色をして比較的大柄な印象でした。

動物園なので小さい子供連れで訪れている人達が目立ちましたが、隣にいたアルパカやその反対側にいた在来牛に比べると「おうまさん」の滞在時間は長く人気者でした。

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旅の足、物流の歴史

• 飛脚という職業

• 上野動物園の在来馬、えりか、シン、琥太郎

• 東京都内にみる馬と関わる地名の由来

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飛脚という職業

令和の若い方には馴染みが薄いかと思いますが、昭和の時代の日本のテレビでは水戸黄門や大岡越前など時代劇が、ハリウッドの映画では西部劇が席巻していました。現代の旅の足といえば、近場ではバスや鉄道、遠方目指す時には客船や飛行機を利用するのが当たり前になっていますが、時代劇で男女が旅に出る際には、男女ともに笠と脚絆をまとい、女性は杖を持つというのが一定のイメージでした。西部劇では登場人物がカウボーイ、ガンマン、保安官など趣が違うことに加えて、旅に出る場面が限られていることもありますが、広大な大地を徒歩で移動することは想定されていません。皆さん、颯爽と馬に乗っています。

江戸時代の職業といえば、お侍や十手を持った岡っ引と呼ばれた警察官など地域を治めた人たち、農業により人々の食と藩の財政を支えた人たち、衣や住を支えた職人さんや大工さん、個人的には堺の商人に代表されると考えている、輸送船を抱えて国内の物流だけでなく海外文化の導入したと考えられる人たちの仕事が思い浮かびます。更に想いを馳せると、街道を駆け抜ける飛脚と呼ばれる人たちもいました。ふと不思議に思われませんか?時代における各国の文化、風俗であることに違いはないのですが、西洋の人たちは馬に乗って颯爽と、日本人はなぜトコトコ歩き、馬ではなく人間が走ったのか‥。

東京都品川区に物流博物館というところがあります。以前は日本通運の企業博物館であったとのことですが、現在は財団により運営され一般入館もできる施設になっています。

物流の歴史についての展示があり、飛脚についても言及されています。その資料によると、最も速いとされた公務専用の継飛脚と呼ばれる人たちは、江戸から大阪まで昼夜60時間で走ったとされています。また、江戸時代を遡った戦国時代においては、武将が乗る馬が一頭ではなく、馬が疲れた時の代替が用意されていたとも聞きます。江戸時代の民間の町飛脚と呼ばれる人たちは馬で荷物などの輸送も請負っていたようですが、やはり予備の馬を2、3頭は連れていたようです。日本の在来種の馬は、ポニーのように小型で脚も遅く、長時間の労働も得意ではなかったので、馬に走らせるよりも飛脚が走った方がよほど速かったということだと考えられます。

国内の観光地では令和の時代になっても、人力車に乗る優雅な移動と引き手の方の案内を楽しむ姿を見かけます。明治時代に入り、飛脚の仕事が郵便制度などに移行した際、彼らは郵便のほか人力車の担い手にもなったようです。西洋の脚の速い馬種が導入され、その後バス、鉄道、更にはタクシーが身近な現代においても、国内の観光地で人力車が目を引く風景こそ、各地域で日本の文化、風俗を感じることができて、とても素敵なことのように思います。

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